色のアラカルト:日本人の青と緑㉖ 近代および総括

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日本人の青と緑㉖


この連載もいよいよ最終回になりました。
江戸時代終盤から現代までの流れを紹介します。


◆江戸時代における認識変化

今回は俳句に登場した「青空」から始めます。

 青空と一つ色なり汗拭ひ       小林一茶

小林一茶(1763-1828)は江戸時代を代表する俳人の一人です。


一茶肖像 (村松春甫画/ 一茶記念館所蔵)

おそらく藍染の手拭を持っているのでしょう。あるいは江戸後期にすでに入り始めていた舶来のハンカチという可能性もありますが、いずれにしても、その布と青空が「一つの色」に感じられたという句になります。ひとまずは、手拭の向こう側に晴れた空が広がっている情景が浮かびます。

まず、「青空」という表現は当たり前ではありません。江戸時代になってもずっと無かった言葉です。奈良時代であれば「青い空」で曇った様子を思い浮かべた可能性もあります。青の元となった「漠」は快晴を示す言葉ではないため、晴れた空を青いとする感覚はずっと無かったのかもしれません。

漢詩によって「青天」という言葉は平安時代に入ってきていました。ただ、定着はしていないようです。「せいてん」で一般的なのは「晴天」です。松尾芭蕉の門人である向井去来(むかい きょらい)が詠んだ連句の歌に「青天に有明月の朝ぼらけ」というフレーズが出てきます。澄み切った明け方の空に月が残っているという光景を表していますが、明け方なので普通の青空とは違いますね。やはり、快晴の空を青いとする感覚はかなり新しいものだと言えそうです。

ただ、一茶の句を映像で考えると、「青空」がgreen系も含む漠然とした色範囲を指すのであれば全くもって鮮明さに欠けます。もちろん曇った様子だということも考えられません。間違いなくblueの空を指す言葉として「青空」を使い、この表現で正確に色彩が伝わると確信していたはずなのです。

ベロ藍が暮らしを染め、浮世絵に鮮烈な空が広がる時代になってようやく「青空」という表現が成立したということなのでしょうか。
「赤富士」として知られるこの北斎の絵はベロ藍を使って「快晴」を表現した代表例です。


葛飾北斎「凱風快晴」

ただし、庶民全般に通じる俳句であったかはわかりません。地方や年齢層によって、青と緑の捉え方はまちまちだったはずですし、まだまだ古い青認識が主流だったとは思います。

それでも一茶のような人物が「青空」で情景が伝わると考えていたという事実は、皆が「新しい青」に同調するだけの土壌が整いつつあったことを示唆しています。何らかのアクションを待つだけの状態になっていたと言えるのではないでしょうか。


◆平賀源内の青認識

図らずも「新しい青」に向けた下準備をすることになった人物の一人が平賀源内です。前々回の記事ではベロ藍を紹介した人物として紹介しましたが、源内は蘭学の一部として西洋画の技法を独学で研究し、その画法は秋田蘭画に受け継がれました。

秋田蘭画とは、秋田藩の家臣である小田野直武が平賀源内から西洋画法を学んだことに始まり、その後秋田藩主の佐竹曙山らも加わって展開した和洋折衷絵画の系譜です。


小田野直武「東叡山不忍池」 秋田県立近代美術館所蔵

小田野直武は平賀源内を追って上京し、解体新書の挿絵を描くなど源内の仕事を手伝いました。その後、佐竹曙山を始めとした多くの人物にその西洋画法を伝授しています。


佐竹曙山「松に唐鳥図」 個人蔵

確かに和洋折衷ですね。こうしたコミュニティにおいては元祖である平賀源内の青認識が大きく影響していたはずです。源内は1763年に刊行した『物類品隲』のなかで、多くの青系色材を整理していますが、青だと位置づけた色は、空青、曾青、紺青、そしてベレインブラーウです。

ベレインブラーウというのは後のベロ藍のことですので、つまりはプルシアンブルーの素です。源内は紺青をさらに濃く鮮やかにした色としてこの色を整理しています。色相としては紺青に近く、しかも従来の紺青よりも遥かに濃く鮮やかでしたから、これを「紺青の上位」としたわけです。

また、ベロ藍は中国系の「仏頭青」や「回回青」に近いと解説しています。「仏頭青(ぶつとうせい)」というのは仏像の頭部の青い螺髪のことで、「回回青」は中央アジアのイスラム圏から中国に伝わった青です。「回回青」は「回青」とも呼びます。日本にも「回教」という呼び方がありますが、中国では回教とも回回教とも呼び、「回回」というとイスラム教徒のことを指すようです。

いずれも原料はコバルト系です。つまり、「源内はベロ藍がコバルトブルーに近いと思った」ということになります。

仏頭青/ 九品阿弥陀如来 回回青/ 中国明代の磁器
九品山 唯在念佛院 淨眞寺 東京国立博物館/ ColBase


緑青や藍と紫の記述も見ましたが、空青、曾青、紺青、ベレインブラーウなどのコバルトブルーが「青」というグループの中に並び、その外側に藍と紫が別系統として置かれているというのが源内の青認識だと考えられます。

他の鉱物の用例も見ていくと、源内の青と緑の使い分けが極めて細かく現代的であることに気づきます。「青」の項目に並ぶものは現代の感覚でも blue寄りで、green系であれば「緑塩」「緑青」のようにきちんと緑の字が含まれる形で扱われています。特に「緑塩」の項目では、蛮産のスパンスグロウン(西洋の緑顔料)というものについて、「緑、青より淡し」と書かれています。緑と青が別物とみなされていることがわかります。

ただし、植物の説明においては緑と青が混在しています。無機物ではかなり正確に青と緑を分けているのですが、どうしても植物の基本は青のようなのです。薄い場合にだけ緑としているような気がします。

源内の色表現を総括しますと、「緑」と「青」については概ね
緑:yellowgreen,green,bluegreen
青:green(植物のみ),bluegreen,blue
のように捉えていたと感じます。

要するに今とほとんど同じです。この認識は「緑が除かれた志筑の青」より早い1763年のものです。青と緑を完全に独立した色相として認識していたかは微妙ですが、西洋画法の開拓者であり、秋田蘭画の系譜に繋がる人物が、青と緑を並列に置き、比較できるようにしたことには大きな意味があります。科学的な話ではなく、一般的な物の説明におけるこの並列配置は後の時代に向けた大きな準備となるのです。


◆欧化政策

準備が整った中、明治時代になって欧化政策という新しいアクションがありました明治政府は江戸幕府を倒した新政権ですが、旧体制の価値観を否定し、富国強兵・文明開化のスローガンのもと、西洋の科学・技術・制度を急速に取り入れました。

明治3年(1870年)、開成学校(後の東京大学)で使われた物理学教材『理化日記』には、「青緑分界ノ黒線F」という記述があります。

「理化日記」より

(画像: 国立国会図書館デジタルコレクション)

ここではスペクトル上で青と緑を分ける境界線が、物理学的に明示されています。上部には図示もされていて、スペクトルは赤橙黄緑青紺紫という7色になっています。
これが日本最古の「7色」なのかはわかりませんが、少なくとも明治3年には青と緑が独立した色であることが承認されていたことになります。結局、平賀源内の認識の通り、さらには志筑忠雄が書いていた通りになった訳です。

正式に幅広い青が消えた瞬間とも言えますね。曖昧なことを許さない科学という世界では当然だとも言えるのでしょう。ただし、すぐに浸透するとも限りません。
学術の世界でも簡単に青認識が変化しなかったという実例があります。


「物理階梯」より

(画像: 国立国会図書館デジタルコレクション)

こちらは『物理階梯』(ぶつりかいてい)という、明治5年に文部省から出版された日本最初の初等理科教科書です。その内容は片山淳吉という人がアメリカの科学入門書を翻訳・翻案したものになります。

この本のスペクトルの説明では、七色は「青蓮色、老藍色、正藍色、正緑色、正黄色、橙黄色、正紅色」と記されています。本来の「青」の位置は「正藍色」です。明治3年に開成学校、つまり高等教育で「赤橙黄緑青紺紫」として青が独立していたにもかかわらず、初等教育ではまだ「青」がスペクトルの色名として使われていないのです。

これは片山淳吉が最新の青認識を知らなかったから、という話ではないと思います。初等教育全体に関わる大きな計画ですから、高等教育で使っていた教科書の内容はチェックしていたはずです。

ですので、わかっていながら「新しい青」を使うことを避けた、と考えるほうが自然です。初等教育の対象は低年齢の子供たちです。彼らの日常ではまだまだ「青」は古い意味で使われていたでしょう。そこに「新しい青」を持ち込めば、確かに混乱を招く子も多いでしょう。慣れ親しんでいた言葉かはわかりませんが、「正藍」「老藍」のような色名を使っておけば少なくとも混乱は避けられる。教育の設計者として、そうした配慮が働いた可能性が高いと思います。

ただし、時が進むにつれて初等教育でも「新しい青」が採用されていきます。明治11年(1878年)の『物理小學』では、スペクトルの七色のなかに単独の「青」が登場しています。


「物理小學」より

(画像: 近代教科書デジタルアーカイブ)


明治5年の時点では「新しい青」を避けて伝統的な色名を採用していましたが、明治11年になって初等教育の場にようやく「新しい青」が届きました。庶民の子供たちも「現代と同じ青」を学び始めた時点、これをもって現代青認識の定着が完了したと言えるのではないでしょうか。

通常、言葉の変化は庶民の日常から自然に広がって、やがて知識層にも及ぶという流れが多いはずです。しかし「新しい青」に関しては逆方向でした。学術的に定義され、それが教育制度を通じて庶民に降りてきたのです。国家の政策が言語感覚を変化させたということにもなるので、非常に珍しい事例なのではないでしょうか。普通は上手くいかないと思うのですが、「西欧化の波」に加え、江戸時代までの「下準備」があったことでかろうじて成立したのでしょう。

色調機能の喪失など、道中様々なことがありましたが、「青」の始まりと現地点を図示すれば結局こうなります。

古代



これらは全て青

 

最終



藍(紺)

 

古来より、青には green、blue、indigo が含まれていました。明治までの段階的な変化で、緑は green 領域の多くを獲得し、藍や紺が indigo周辺 を示す色名として独立したことで、青には blue領域 が残りました。この手順であれば、空色・水色などは青の中に残っていたはずです。

ただし、この細分化された定義はあくまでも学術・教育レベルでの話です。そのこととは無関係に、生活に密着した「青野菜、青物、青々と」などの言葉はそのまま残ったのです。

「なぜgreenなのに青リンゴなのか」の答えは、ここにあるのだと思います。明治の動きで色相定義としては青と緑が分かれたものの、教育の場の影響を受けずそのまま残った「古い青」も多数存在しているのです。古来からの慣習であり、変える意味も必然性もないのですから当然だと思います。明確に「新しい青」を理解していたはずの平賀源内ですら「植物は青」なのですから、その後も「青野菜」という表現をやめなかったのはむしろ自然なのです。


◆総括

このシリーズを振り返って、青と緑について整理しました。

古代 明暗顕漠。色相ではなく明度や色調で色を捉えた。
アヲは[低彩度全般+寒色系]
~奈良時代 greenがアヲの主流になる。
五行説伝来により、中国由来の色彩体系で冠位制度が作られた。
「青」の字も伝わったが、中国でもgreen。
平安時代 貴族社会の中で日本固有の色彩が発達した。
「青丹」「青鈍」に見られるように、青の主軸はblueではない。
みどりが登場し、若葉と晴れた空の色に使われた。
鎌倉時代~室町時代 青磁のような青も登場したが、青の主軸はgreen
green系の緑が一般化した。
室町時代後期から藍染が飛躍的発展→後のジャパニーズブルー
このあたりまで青の色調機能が強めに存在
安土桃山時代 青織部の青のように、まだまだ濃いgreenや鈍いgreenが青の主軸。
~江戸時代中期 青漆の青は濃いgreen。植物の青を含め、green系でしか青が登場しない。
江戸時代後期 ベロ藍が浮世絵の世界で脚光を浴びる。平賀源内により秋田蘭画でもベロ藍が採用されたが、「青」と呼んでいたかは不明。
その後、学術世界で青と緑が独立し、blue限定の青が初登場した。
明治時代 欧化政策により[青=blue]と教育されるようになったが、生活に根付いた表現は温存されたため、現代の二重構造が完成した。



青が示す色彩の変遷を簡単にまとめるとこうなります。

(低彩度全般)+(寒色全体)
 ↓
(低彩度全般)+(green系)+(blue系)+(navy系)
 ↓
(green系)+(blue系)+(navy系)
 ↓
(blue系)

ただし、「植物の青」や「顔が青い」のような伝統的な表現は常に加わります。

古代の青は色調と寒色全体を漠然と指していましたが、そこから緑と藍がそれぞれ独立した色相語として分離したことが結果的に大きかったと思います。平安時代に「碧」の訳語として登場したみどりは、長い時間をかけて green だけを表すようになりました。navy 系は藍染の発展を経て「藍」あるいは「紺」として分離されました。そして明治で学術的に定義される段階になって、青は blue系 のみを指す色名となりました。

ただし、「青がblue系のみ」というのは学校だけの話であって、一般生活に密着している青はそれとは無関係にそのまま残ります。青物、青々と、青二才、青白い顔、こうした青は単純な色彩表現ではなく慣用的な表現ですから、これからも消えることはないでしょう。

また、純粋な色表現としても「古い青」が完全に消えているという確証はありません。どこかで細々と生きていて、いつかまた「古い青」が復活するかもしれません。言語は生き物ですから、予想外のことも起こり得ると考えていた方が楽しいです。



最後に・・・
このシリーズを通して、思いもよらなかった題材にたくさん出会いました。
大麻、神武天皇、河内湾、大物主神、賀茂伝説、チヌ、アオギス、三千家、長谷川等伯...
挙げればキリがありませんが、出会ったものに導かれて調べ物をすることがいつのまにか習慣になっていました。

記事を書いた後に各題材のゆかりの地に足を運ぶことも数多くあります。橿原神宮や大神神社も参拝しましたし、智積院を拝観して楓図と桜図も直に見ました。


本線から逸れることも多かったために雑多な内容になってしまいましたが、メニューのPOST→JOURNAL LIST にて全ての記事に直接アクセスできるようになっておりますので、付録記事などもご一読いただけますと幸いです。

長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
引き続き、Infigo online をよろしくお願いいたします。



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当記事には筆者の推察が数多く含まれています。また、あくまでもInfigo onlineに興味を持っていただくことを目的としておりますので、参考文献についての記載はいたしません。ご了承ください。
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