色のアラカルト:日本人の青と緑⑰ みどり(下)

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日本人の青と緑⑰


前回は清少納言と和泉式部のみどりを紹介しましたが、今回は紫式部です。
過去の記事では冠位について数多く紹介しましたが、平安時代からは位に応じて定められた袍(ほう)と呼ばれる上着の色に注目します。位袍(いほう)という制度で、色認識を考察するための重要な手がかりです。


◆源氏物語のみどり

源氏物語は平安時代中期に紫式部によって書かれた日本古典文学の最高峰とされる長編小説です。繊細な心理描写と美しい文章は、千年以上の時を経た現在でも多くの人々に愛され続けています。

その第32帖「梅枝(うめがえ)」に「花盛り過ぎて、浅緑なる空の、うららかなるに」という表現が出てきます。
主人公の光源氏が古い歌などに思いを巡らせながら、心ゆくまで筆を執るといった場面です。花の盛りが過ぎているのですから三月下旬あるいは四月初めといった時期の穏やかな空だと思います。

浅緑はこういう色です。

浅緑
#9BCF97 #91B493

どうでしょう。空の色になるでしょうか。
いい感じではありますが、実際にこんな色の空はなさそうです。

ただし、源氏物語にはこれより前に「あさみどり」が出てきています。

第21帖「少女(おとめ)」で、光源氏は息子の夕霧に六位という位を与えます。光源氏は最上位ですから、その子供であれば四位か五位くらい(袍は赤系)にするのが妥当なのですが、敢えて厳しくするのです。

その後、夕霧は雲居の雁(くもいのかり)という内大臣の娘と恋仲になったものの身分の違いで引き離されてしまいます。雲居の雁の乳母が気の毒に思って二人を対面させますが、そこで夕霧は「立派な方でも六位風情では・・・」という乳母の陰口を聞いてしまい
「くれなゐの 涙に深き 袖の色を あさみどりにや 言ひしをるべき」
と歌います。

これは「恋い慕って血の涙を流し、深紅に染まっている私の袖の色を、六位ふぜいの浅緑と言ってけなしてよいものでしょうか。」という嘆きの歌です。

このときの袖の色を浅緑としているのですが、六位の袍は「深緑」とされています。深緑のレシピは「苅安(かりやす)に藍 」です。藍の分量は紺と同じで、浅緑とは雰囲気もかなり違います。

苅安 深緑
#1D3156 #F5E56B #006248


#008A52

このくらいまではあり得るかもしれませんが、それでもかなり印象が違いますね。やはり深緑と浅緑を同一視することは不可能です。



さらに、この夕霧の服は浅葱(あさぎ)とも「緑の袖」とも表現されていて、ある意味適当です。浅葱色も藍染めがベースなのですが、こういう色とされています。葱(ネギ)の葉の色が由来です。

浅葱色
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浅葱色は平安末期の文献に「薄い瑠璃色」と記されており、基本的に浅緑や深緑とは全然違います。他の記述を見ても、どちらかと言えばこの色は縹に近いのです。
混乱しますが、これであれば空の色になりそうですね。

なお、誤解を生みやすいのですが、悠仁さまが成年式で着用していた装束は「浅黄色」です。読みが同じなので、本当に混同していた時代もあったようです。


ここで、実際の位袍の変遷について整理しておきます。

A. 757年~
一位 二位, 三位 四位 五位 六位 七位 八位 初位
深紫 浅紫 深緋 浅緋 深緑
浅緑
深縹
浅縹

B. 810年~
一位 二位, 三位 四位 五位 六位, 七位 八位, 初位
深紫 中紫 深緋 浅緋 深緑
深縹

C. 摂関期~現在 (9世紀末~)
一位~四位 五位 六~八位, 初位(そい)
蘇芳 深縹


まず、源氏物語が書かれた時代はBCで位袍に浅緑はなくなっています。つまり、物語の時代背景としては遡っていることになり、紫式部は過去の位袍について調べたはずなのです。

ただ、Aを採用していたとしても六位は深緑です。六位の袍が浅緑という時代はありません。変ではありますが、調べ方が悪かったのではなく、意図的にそうしたと考えられます。

というのも、夕霧はその後、三位(さんみ)に昇進し
「あさみどり わか葉の菊を つゆにても こき紫の 色とかけきや」
と歌うのです。

「浅緑色の葉を持つ白菊が、真っ白な花から時間が経つと濃い紫色に変色する」という意味で、「かつては三位の紫の服を着ることになるなど想像せず、馬鹿にしていましたね」といった思いが込められています。白菊の花は気温が下がると霜焼けによって白から紫色に変色することがあるのです。移菊(うつろいぎく)と呼ばれます。

移菊


三位が濃い紫というのもBの時代だけですから、源氏物語の位袍は存在しない完全オリジナルルールです。おそらく、最初の服を若葉の浅緑色にするのは昇進時にこの歌を詠ませるための布石だったのです。フィクションですから制度の設定は自由です。状況がきちんと伝わりさえすれば何の問題もありません。

当時は五位以上が貴族だったそうなので、ひとまずは青系であるだけで万人が相当下の位だと感じた可能性が高いです。また、濃淡で上下を表す色制はこの時代の読者にも理解されていたでしょうから、色が薄いことによって下位であることが強調され「可哀そうな夕霧」を最も上手く演出できたのだと思います。

Aに従って七位にするという方法も考えられますが、最上位の御子息にはあり得なかったのでしょう。ここはリアリティを重視したのだと思います。そもそも歌の方を深緑にすればいいような気がしますが、どうしても淡い色にしたかったという気持ちもわかります。また、先の歌を詠むには濃い紫であることは変えられませんが、一位への昇進もあり得ませんし、深紫より中紫の方が合っています。

結局、六位の浅緑 → 三位の中紫 という変則スタイルが最善だったのです。そうまでして先の歌を披露したかったということですね。確かにこの「移ろい」は綺麗です。

浅緑 中紫
#9BCF97 #692755


「白菊の歌」に至るまで実に巧妙な仕掛けですが、この服を浅葱色とも表現していた理由は何なのでしょうか。何種類かの袍があって浅緑の物と浅葱の物があったという設定なのでしょうか。それとも、前回記事のまとめで提唱したような「blue~greenであれば色相はあまり関係ない」ということでしょうか。本当に青系は明度だけで判断した時代なのかもしれません。

また、現在では明度が高く彩度が低い時に「色が浅い」となりますが、この頃も同じだと思います。染色においては「染料が少ない」「染料の濃度が薄い」のようなことでしょうから、「下位の色は浅くて安上がり」という印象があったかもしれません。



「あさみどりの空」はこういう薄い青空なのでしょう。そもそも「みどり」は明度が高い「青」だったと思いますので、その中でもより明度が高く彩度が低い印象の空になると思います。流行していた「みどりの空」の紫式部流アレンジですね。


こちらは結婚後の夕霧と雲居の雁です。引き裂かれてからも文通を続け、6年後についに内大臣の許しを得ました。


源氏物語絵巻_夕霧



◆六位の装束、蔵人の装束

実は紫式部の父である藤原為時は花山天皇の時代に「六位の蔵人(くろうど)」だったのですが、大河ドラマ「光る君へ」でこのように再現されています。


(画像: NHK)

普通に緑系ですね。でも、確かに浅緑ではないです。深緑だと辻褄が合うのですが、青みが多い感じもします。緑と浅葱色を混ぜたような雰囲気です。黄色く下染めをしてからの藍染めだと、実際にはこういう色になりがちなのかもしれません。先に紹介したような純粋な深緑にはならないのでしょう。

これは葱の色に近いような気もします。この時代の為時の装束として採用したこの色は、源氏物語の「浅葱色」の記述に影響を受けている可能性もありますね。制度上は深緑とされていますが、少し青みが多いだけで確かに浅葱色に近づくはずです。



現在の浅葱色は縹に近い感じなのですが、本物のネギの色は空にも夕霧の装束にも適しているのではないでしょうか。紫式部の浅緑と浅葱色は現在の定義の中間の色をイメージしていたと思います。そうすれば、ドラマの装束の色にも非常に近いのです。

浅緑 中間の色 浅葱
R:155
G:207
B:151
R:78
G:186
B:171
R:0
G:165
B:191



源氏物語の第14帖「澪標(みおつくし)」の「住吉参詣」にはこのような箇所があります。

松原の深緑なるに、花紅葉をこき散らしたると見ゆる表の衣の、濃き薄き、数知らず。六位のなかにも蔵人は青色しるく見えて...
(深緑の松原の中に、花や紅葉をまき散らしたように美しく見える衣服の濃い薄いは数知れない。六位であっても蔵人は青色で目立ち...)

まず「深緑」が今と同じ使い方ですが、「青」としない理由は何なのでしょうか。和泉式部も「松は常にみどり」でしたので、「空はみどり」のように「松はみどり」がお決まりだったのでしょうか。「浅緑の空」と同様に「深き」を付け足すオリジナリティも見せています。清少納言と同様に色彩表現には自分なりのルールがあったのでしょう。

そして「六位であっても蔵人は青色で目立つ」というのが問題です。
源氏物語の六位は浅緑か浅葱色という設定のはずですが、この青色はそれらとも異なる色であることがわかります。


枕草子にも「蔵人」がたくさん出てきますので、現代語訳でいくつか紹介します。

「蔵人になりたいと思っていて今すぐにはなれない人が、祭りの当日あこがれの青色の袍を着用していたら、そのまま脱がせないであげてと感じてしまう。」
「六位の蔵人。高貴な貴公子たちでもなかなか着ることができない綾織物を自由に着ている青色姿などが、非常に素晴らしい。」
「蔵人の青色の装束が、雨などで湿ってくると、たいそう優美で面白く見えるだろう。」
「(他の官職に対し)青色をいつも着ていたら、どんなにお洒落だろうか。」

どうやら清少納言は「蔵人推しの青色フェチ」のようで、しきりに褒めています。
「青色の袍」というのは、麴塵袍(きくじんのほう)と呼ばれる装束のようです。麴塵はコウジカビの色で、青白橡(あおしろつるばみ)という色と同じだとされています。

麴塵 (青白橡)
#68876F #85916D

現在の感覚ですとこの色を「青」とは呼びづらいですね。平安時代になってもまだまだ今の認識とはかなり異なっていたことが確認できます。

蔵人は天皇の側近として昇殿が許されており、同じ六位でも服装に関しては優遇され「青色の袍」の着用も許可されていました。この色を着るのは蔵人のステータスであったと考えられます。ただ、年中これを着用していたのとは違います。普段は他の六位の人たちと同じだったはずで、晴の時(儀式や行事などの公式な場面)だけこれを着用していたようです。

ただし、蔵人頭(くろうどのとう)の藤原実資(さねすけ)は着ていました。

麴塵袍
(画像: NHK)

蔵人でもトップであればこの高貴な袍を常時着用していたのですね。
やはり、この色は今だと緑です。


◆まとめ

紫式部も「みどりの空」を取り入れていますが、まずは文学的格調をもたらすための演出だと考えられますので、実際の空の色とはあまり関係なく、これに関する色相の議論は基本的に無意味だと思います。

ただ、浅緑と浅葱の使い分けについては、何らかの意図があった可能性が残ります。「緑」と「葱」は現在の感覚だと黄色成分の程度で区別する感じになりそうですが、当時はそもそも空の色が「緑」で良いのですからそうとも言えません。

いかに雅であるかが大事だったでしょうから、色を厳密に区別することには一切興味がなかったかもしれません。ただ、全く同じ条件で2種類の言葉を使うでしょうか。何か異なっている部分があったと仮定しますと、ここでも明度の高低で区別していたと考えることができます。



一例を青緑系の色相で示しますと、このような認識であった可能性があります。清少納言であれば上部2段は全て「みどり」でしょうが、「色が薄い」を強調したいがための「浅緑」だったのかもしれません。最上段の浅緑は空の色になりそうです。

そして、浅葱色はその下の段にあったような気がします。つまり、やや明度が低いという設定のように思うのです。夕霧の位袍が「左から2列めの浅緑(スター付き)」であれば、夜や曇りの日、あるいは室内では浅葱色とし、晴れている屋外の描写では浅緑という感じで使い分けができた可能性があります。

また、この3領域以外のところは全て「青」でしょう。一番左の列に麴塵があるような気もしてきます。また、麴塵の画像を見る限り、これが青色なのであれば「青」に関しては全く進展がないように思えました。灰がかった典型的な昔の青です。新緑と松葉の色は青から緑に変わったものの、「青」の基本的な使い方に変化はなかったと考えて良さそうです。


2回にわたって平安時代のみどりを見てきましたが、結局この時代に「汎用的な緑色」が確立されたとは言えないと思います。青もそのままです。

宮中の女性たちの装束は格段に進化し、多種多様な色彩が使われるようになっていたのですが、古くから文献に「深緑」があったものの、「かさねの色目」と呼ばれる宮中装束の配色においては、「緑青」以外の色名に「緑」という字が出てきません。現在の緑色は「青」、黄緑色は「萌黄」などと呼ばれていたようですので、色名としての「緑」は未熟な状態だったのです。



                                                ⑰

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当記事には筆者の推察が数多く含まれています。また、あくまでもInfigo onlineに興味を持っていただくことを目的としておりますので、参考文献についての記載はいたしません。ご了承ください。
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