神武東征その後

即位前の神武天皇は、古事記において神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)、日本書紀において神日本磐余彦火火出見尊(かんやまといわれびこほほでみのみこと)と表記されていますが、ここでは便宜上「イワレビコ」と表記します。


イワレビコ軍が茅渟の海まで退却したところからの続きです。
その後は紀伊半島をぐるりと回ることになりますが、負傷していた五瀬命は和歌山の竈山(かまやま)で息絶えます。

竈山神社 竈山墓


竈山神社は五瀬命の神霊を祀る神社で、本殿の後ろには五瀬命の墓とされる古墳があります。


その後、軍は熊野まで進み、大泊から上陸することになります。
このように進みました。


もちろん道中いろいろな苦難がありますが、八咫烏(やたがらす)の案内もあって宇陀にたどり着きます。

宇陀には兄宇迦斯/兄猾(エウカシ)と弟宇迦斯/弟猾(オトウカシ)という豪族の兄弟がいたので、服従するよう伝えますが、オトウカシは従ったものの、エウカシは従ったように見せかけてイワレビコ暗殺計画を立てます。

ところが、この計画はオトウカシの密告により露見し、エウカシは自ら作った罠によって亡くなります。
その後、オトウカシは大宴会を催してイワレビコの側近となります。


日本書紀では、この後に現東吉野村の「丹生川上(にうかわかみ)の地」で神意を占ったことが記されています。
この場所は1940年の神武天皇聖蹟調査によって比定されたそうですが、地図上では宇陀から結構戻る感じですね。

神武天皇聖蹟丹生川上顕彰碑
 
(出典:2010陵墓探訪記)


オトウカシが主催した大宴会の後、イワレビコは吉野川流域を巡って周辺の有力者と出会い、再び宇陀へと戻ってきます。
そして、宇陀の高倉山に登り国中の様子を見るのですが、重要な道が全て敵に押さえられていることを知って憤慨します。

すると、夢に天神が出てきて、次のようなことを告げられます。

「天香久山の土で平瓮(ひらか:平皿)を造り、あわせて厳瓮(いつべ:御神酒を入れる瓶)を造って神々をお祀りせよ。また、身を浄めて呪詛をせよ。そうすれば、敵は自ら降伏して従うだろう。」

そこで、臣下の椎根津彦(しいねつひこ)とオトウカシに土を取ってくるよう命じます。
椎根津彦とオトウカシは、それぞれ老父と老婆に変装をし、危険を承知で天香具山に行きました。
(天香具山は橿原市にあります。)

道中たくさんの敵兵に遭遇しますが、変装が功を奏し、天香具山の土を持ち帰ることに成功します。

イワレビコは非常に喜び、その土で祭祀用の土器を造り、丹生川上流まで行って神々を祀りました。
そしていよいよ神意を占います。

まずは
「たくさんの平瓮で水無しに飴を作ろう。飴が出来たならば私は武力を使わずに天下を平定できるだろう。」
と言います。
すると、自然に飴が出来上がりました。

さらに
「厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚の大小にかかわらず、槙の葉が流れるように酔っぱらって浮かび上がって流れたら、私は必ずこの国を治めるだろう。もし、そうならなかったら全ては失敗する」
と言って、瓶を投げ込みます。
しばらくすると魚が浮き上がり、口をパクパクさせました。


槙の葉/イヌマキ

椎根津彦がその事を報告すると、イワレビコは大いに喜び、川上のほとりにあった数多くのお榊を抜いて神々に捧げ、お祀りをしました。
これにより祭儀のときに御神酒の瓶が置かれるようになったということも記されています。

その後、天神のお告げと占いの結果の通り、イワレビコはナガスネヒコを含む様々な敵を全て討ち破って国中を平定し、紀元前660年に橿原宮で即位して神武天皇となられました。


畝傍山の麓にある即位の地には橿原神宮が創建され、神武天皇が祀られています。
是非、橿原神宮HPをご覧ください。

(写真提供:一般財団法人奈良県ビジターズビューロー)



当記事には筆者の推察が数多く含まれています。また、あくまでもInfigo onlineに興味を持っていただくことを目的としておりますので、参考文献についての記載はいたしません。ご了承ください。