色のアラカルト:日本人の青と緑⑥ チヌと鯛(上)

日本人の青と緑⑥   チヌと鯛(上)


古事記のアカを調べる過程で「赤海鯽魚」という言葉が出てきましたが、
赤海鯽魚=アカチヌ=真鯛
という説明に引っかかり、チヌと鯛について調べました。

当初は単に「チヌ」の補足説明をするつもりでしたが、関連が多岐に渡るので一つの記事として配信することにしました。

まとめる過程で新たな疑問や紹介すべきことが次々に出てきました。
沼にハマり、最終的にかなりの量になってしまいましたので、2回に分けてお届けします。


マダイ・クロダイ・フナ

まず「海鯽」でチヌなのだそうですが、この「鯽」は鮒(フナ)のことでした。
つまり、チヌ(=クロダイ)が「海のフナ」という言い方をされていることになります。

ただ、クロダイは非常にカッコいい魚で、フナに似ているとは全然思えないです。
 

それに、魚の王様であるマダイが「赤い海のフナ」となってしまうのは非常に残念です。
比べるまでもなく、風格が全然違います。


ただ、マダイが王様扱いされるようになったのは平安時代~鎌倉時代のあたりからだそうで、仕方ない面もありそうです。

①ウロコが固いことから将軍の鎧に例えられた。
②平安時代に餅を食べる儀式として始まったお食い初めで、鎌倉時代からは鯛を食べるようになった。

こうした経緯で鯛がもてはやされることになったようですが、こんなルックスで本当にセンターを張っていなかったのでしょうか。
全然納得いきません。
この理由についても考える必要があります。



茅淳の海

まずはクロダイがチヌと呼ばれることについてです。

「チヌ」という呼称は、元々大阪湾が「茅淳(ちぬ)の海」と呼ばれていて、そこでたくさん獲れたことが由来のようです。
この「ちぬの海」というのは記紀の神武東征(日本人の青と緑④で触れています)の記述にも出てくる古くからの名称です。

即位前の神武天皇は、古事記において神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)、日本書紀において神日本磐余彦火火出見尊(かんやまといわれびこほほでみのみこと)と表記されていますが、ここでは便宜上「イワレビコ」と表記します。

 

●古事記での記述

イワレビコの軍は紀州に上陸してすぐに那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)との戦いになりますが、イワレビコの兄の五瀬命(いつせのみこと)が矢を受けて負傷します。その後、軍は南方に迂回し「血沼(ちぬ)の海」に至ったと記されています。
また、五瀬命の手の血を洗ったので「血沼の海」と呼ぶという説明も付いていました。

 

●日本書紀での記述

五瀬命は日本書紀では彦五瀬命(ひこいつせのみこと)と表記されています。
彦五瀬命が負傷した後、軍は「茅淳の山城水門(やまきのみなと)」という場所に着いたと記されています。「茅淳」の読みが「智怒(ちぬ)」だという説明付きです。

 

日本人の青と緑④で説明しましたが、当時の地形はこのような感じになります。
(もっと緑色だったと思いますが)

改めて記紀の内容を整理しますと、
海路で白肩津に到着→生駒山を超えて大和に向かおうとしたが待ち伏せされて戦になる→五瀬命が負傷→一旦退いて南に進み、船で「血沼の海」または「茅渟の山城水門」に到着
となります。
(別ページ「神武東征その後」では、「血沼の海」から即位に至るまでの経緯を簡単に紹介しています。是非ご覧ください。)

 

やがて大阪湾全体が「茅淳の海」と呼ばれるようになるのですが、古事記だと「南に迂回して血沼の海に着いた」となっていますから「血沼の海」が大阪湾全体を指していたとは思えません。
また、「茅淳の山城水門」の場所の特定はできていないようですが、大阪府の和泉地方の古名が「茅淳」であったそうです。

そうなると、最初は泉大津や岸和田の辺りの海だけを「茅淳の海」と呼んでいた可能性が高いと思います。
もしそうだとすると、その地域だけが由緒正しい「茅淳の海」になりますね。

また、チヌという魚名から「茅淳の海」になったという説もありますが、ともかくこの魚の名前がいつからあったのかはわかりません。

なお、「岸和田 黒鯛」で検索すると「岸和田黒鯛フェア」というイベントが出てきました。

イベントだけではなく、継続的にクロダイを推しているようです。
岸和田の黒鯛 [PDFファイル/3.31MB]
(提供:岸和田市魅力創造部農林水産課)

案の定、クロダイは岸和田でもたくさん釣れるようです。
また、岸和田市内の小・中学校、高校の校歌では「茅渟」という言葉が数多く使われているそうです。

こうなると
『茅渟の海』発祥の地
と言ってしまってもいいように思います。

ただ「チヌ」ではなく「黒鯛」となっているのが少し不思議で、最初は関西名が通じないリスクを避けているのかと思ったのですが、全然違いました。

沿岸で獲れるチヌは臭みがあり、岸和田の地元ではおいしくないというイメージが付いてしまっていて、価格が低迷しているそうです。
しかしながら、沖で獲れる黒鯛は真鯛にも劣らない味なので、既存イメージを払しょくするため、馴染みのある「チヌ」とはせず、地元の方々にとっては新しい呼称の「黒鯛」で推していこうという意図があるようです。

 

赤海鯽魚の読み

前述の通り、クロダイが「チヌ」と呼ばれるようになった時期は不明なのですが、古事記での登場順序に矛盾を見つけました。

赤海鯽魚が登場するのは「山幸彦と海幸彦」という兄弟のお話です。
この二人は天孫降臨で有名な瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)との間に生まれていて、古事記では海幸彦の正式名が火照命(ホデリ)、山幸彦は火遠理命(ホオリ)です。

そして問題は、神武天皇がホオリの孫とされていることです。
つまり「血沼の海」命名に繋がる神武東征の前に「アカチヌ」という言葉が出現していることになるのです。
当然、古事記の記載順序も「山幸彦と海幸彦」の方が先になります。

本来、太安万侶としては物語の中であったとしてもこうした事態は避けたいはずです。
そうしますと、「海鯽魚」を「チヌ」と読ませるつもりはなかったのかもしれないという新たな疑念が生じます。

そもそも「海鯽」や「海鯽魚」が「チヌ」だとすれば、漢字で意味だけを表す完全な当て字スタイルです。
読み・リズムや伝わりやすさを重視する古事記において、普通には読めない当て字を注釈もなく使い、なおかつ時系列の矛盾も生じるような形にするのはかなり不自然なのです。

「海鯽魚=チヌ」が完全に常識の範囲で、意味は通じたのかもしれませんが、それでも「血沼の海」登場の前に「チヌ」を出すしか手段がないのだとすれば、別の単語を使ってから「○○は海鯽魚のこと」などと別途説明する方法を選んだはずだと思います。

したがって、物語当時の呼称としては別の読みを想定し、読み方とは関係なくマダイのことだと理解してもらえれば良かったのではないかと思うのです。

改めて「鯽」という字を調べますと、
訓読み:フナ
音読み:ソク、ゾク、セキ
となっていました。

「赤海鯽魚」を普通に読むと「あかきうみのソクギョ」あるいは「あかきうみふなうを」などが考えられます。

ただ、神武天皇以前のお話なのですから和名で設定されている必要があると思いますので、ひとまず「あかきうみふなうを」を推しておきます。

大昔だと厳密に分類できないでしょうから、最初は海の平べったい魚は全部「海鯽」だったという可能性もあります。
そうだとしても「赤い」という情報を付ければ、マダイかどうかはわかりませんが、下図のような「赤い鯛の仲間」確定だとは思います。

マダイ チダイ(ハナダイ) キダイ(レンコダイ)

 

やがて、たくさん獲れることによって大阪湾では「海鯽」がチヌになってしまい、後世の読者が「赤海鯽魚」に「アカチヌ」というフリガナを付けたと考えるのが自然だと思います。

確かに呼称としては「うみふなうを」よりは「チヌ」の方が断然いいですし、やがてチヌは「茅淳」と書かれるようになってしまうため、多くの読者にとってフリガナは必要だったと思います。
「赤海鯽魚」の4文字で「タイ」と読む人もいたかもしれません。


この推察が正しければ、「クロダイの赤バージョン」という表現ではなかったことになりますので、真鯛の面目も保たれます。

 

まとめ

ひとまず、赤海鯽魚の読みを「あかきうみふなうを」としました。
庶民が使う呼称としては長すぎるのですが、少なくとも「アカチヌ」と読ませる意図はなかったと思います。


次回はこの問題の完結編で、「最初の鯛」の考察からになります。
「山幸彦と海幸彦」の内容についても紹介しますので、お楽しみに。



               ⑥   
歌は見た目よりも音   
神武東征その後   



当記事には筆者の推察が数多く含まれています。また、あくまでもInfigo onlineに興味を持っていただくことを目的としておりますので、参考文献についての記載はいたしません。ご了承ください。
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