色のアラカルト:日本人の青と緑⑲ 鎌倉時代~室町時代

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日本人の青と緑⑲


前回は平安時代までの青を整理し、現代の認識との差を確認しました。また、鎌倉時代の文献を紹介しましたが、出来事は平安時代のものばかりでした。
今回から本格的に武士の世の中になっていきます。


◆褐色

鎌倉時代に流行し、後世まで継承された色名に褐色(かちいろ)、青褐(あおかち)というものがあります。調べるとこのような色が出てきます。

褐色 青褐
#383C57 #121D3B


褐色は藍染めの紺をより濃く黒に近づけた色だそうです。藍染めでは藍を浸透させるために布を臼で何度も搗(つ)くのですが、「搗く」ことは「搗(か)つ」とも言うらしく、褐色(かちいろ)という色名はこれに由来しているようです。

武士の世では「褐色 = 勝色、搗(か)つ色 = 勝つ色」と考え、鎧などの武具に藍染めの色を使い縁起をかついでいたそうです。そして、この褐色の「青みを強くした」とされるのが問題の「青褐」です。

褐色や青褐は延喜式や正倉院文書など様々な文献に登場しており、奈良時代から存在することがわかっているそうですが、実際のところ色味についてはよくわかっていないそうです。藍をより強くしたのが「褐色」であることは間違いなさそうですが、それを「青く」したのが青褐だとすると、この「青」が藍の色素を意味するのはおかしいです。「青く濃い藍」ということになりますから。

褐色と青褐が同じものを指していた可能性もあると思います。「青碧」のような似たものを重ねた造りの熟語です。そうなると、「青」は藍の色味を指していたことになります。そもそも平安時代までは普通に赤褐色を「褐色」と呼んでいたようなので、褐色(かっしょく)と区別するために「青褐」とするのも自然ではあります。

ただし、もしこの「青」が「灰がかった」あるいは「曖昧な」といった意味を持っていたとすると、こうした色も考えられます。

青褐の候補
#738A94 #708090 #36454F


平安時代までの「青」を振り返ると、こういう方が自然に思えるのです。ただ、手掛かりが全くないようですので、青褐は永久に謎のままかもしれません。


◆徒然草の青

鎌倉時代の随筆に方丈記と徒然草がありますが、まず方丈記に「青」の字は見つかりませんでした。「緑」の出現もありません。

徒然草には山や柳の葉などを青としているごく自然な用例がありました。その中には目新しいものはなく、全て単なる「植物の青」でした。

しかしながら、「青」に一つだけ変わったものを見つけました。その全文を紹介します。

第170段

さしたることなくて人のがり行くは、よからぬことなり。
用ありて行きたりとも、そのこと果てなば、とく帰るべし。
久しくゐたる、いとむつかし。

人と向ひたれば、ことば多く、身もくたびれ、心も静かならず、よろづのこと障りて時を移す、互ひのため益なし。
いとはしげに言はむもわろし。
心づきなきことあらむをりは、なかなかそのよしをも言ひてむ。
同じ心に向かはまほしく思はむ人の、つれづれにて、「いましばし、今日は心静かに」など言はむは、この限りにはあらざるべし。
阮籍が青き眼、たれもあるべきことなり。

そのこととなき人の来りて、のどかに物語して帰りぬる、いとよし。
また、文も、「久しく聞こえさせねば」などばかり言ひおこせたる、いとうれし。


内容は・・・

たいした用事もなく人の所へ行くのはよくない。用事があったとしてもそれが済んだらすぐに帰る方がいい。長居は非常にわずらわしい。
人と向かい合えば自然と会話が多くなり疲れる。落ち着かないまま、全部後回しになり、お互いに無駄な時間を過ごす羽目になる。内心、不愉快に思いながら客に接するのも良くない。嫌なら嫌と、はっきり言えばいいのである。
ただ、いつまでも向かい合っていたいような心の友が、何となく、「しばらく、今日はゆっくりしよう」などと言うのは、この限りではない。阮籍(げんせき)の青眼のような反応は、誰にでもある自然なことだ。
特に用事もないのに人が訪ねて来て、何となく話をして帰るというのは、とても良い。手紙においても、「長いことご無沙汰しておりました」とだけ書いてあればそれで喜ばしいのだ。


このような感じです。

阮籍(げんせき)は三国時代の魏の思想家ですが、青眼と白眼を使い分けることができ、礼儀作法がなっていないような嫌な人には白の眼(のちに白眼視と呼ばれるようになる)、気に入った人には青の眼で対応したと伝わっています。


阮籍 (孫位『高逸図巻』より)

日本語にも「白い目で見られる」という表現がありますが、この阮籍の白眼視が由来です。青い目からは「阮籍青眼(げんせきせいがん)」という四字熟語が生まれています。「特別な好意や敬意を示すこと」を意味し、「周囲から阮籍青眼を受けていた」のように使います。

同じアジア人ですから普通に考えると青眼は黒目のことです。「青毛」の用例と同じ、非常に難しい「青」です。おそらく「わずかに別の色味が重なり、独特の味わいが生まれている深い黒」を「青」とするのでしょう。これは中国特有の感覚であり、日本語だと「青毛・青鹿毛」くらいしか思いつきません。

イクイノックス(青鹿毛)

(画像: https://en.netkeiba.com/)


「漠」由来のアヲと似た、中国の不思議な「青」の感覚です。徒然草の著者・兼好法師もこの微妙な「青」を理解していたようですね。「青毛・青鹿毛」という名称も残っているということは、当時の日本人はこの感覚を理解していたのでしょう。

とは言え、いずれも引用しただけであり、こうした「青」を使った新しい言葉はないと思っていたのですが、ひょっとすると前述の青褐の「青」はこれなのかもしれません。古来からの「曖昧な感覚」のアヲから来ている「青」と、中国の不思議な「青」とが重ねられ、「わずかに藍を感じるようなほぼ黒の状態」を「青褐」としていた可能性があります。しかも、そうなると奈良時代の新語です。

「青」の意味が中国のものであれば、最初に紹介した色みも納得できます。

褐色 青褐
#383C57 #121D3B


藍を濃くしてほとんど黒になった状態を「青い」と形容していたのであれば、中国独自の「青」の認識を借用したレアケースになります。



◆太平記の青


室町時代になっても「青」の字はそれほど頻繁には出てきていませんが、ひとまず太平記の「青」を紹介しておきます。

太平記は、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒から南北朝の動乱を経て室町幕府の成立に至るまでの約50年間の歴史を描いた軍記物語です。14世紀後半に成立しましたので、全てが室町時代の色認識に従って書かれているはずです。


** 青女房 **
まずは「青女房」という言葉です。前回記事でも紹介しましたが、吾妻鏡の「青女(あおめ)」によく似ています。貴人に仕える身分のさほど高くない若い女官を指す言葉だそうです。
これも「未熟の青」の用例ですね。


** 青侍 **
武士の世になってお侍さんが国家機関で働くようになりましたが、基本的には六位に置かれていたそうです。そして、この頃の六位以下の位袍は縹色であったことから青侍という言葉が生まれたようです。藍染めの「縹」を青のカテゴリーと認識していることがはっきりとわかる例です。

なお、青侍は「年齢が若いだけの単なる侍」にも使われていたようなので、この「青」は「未熟の青」でもあった可能性があります。


** 青塚 **
これは苔の生えたお墓のことです。あまり手入れされていない墓という事で、無縁塚(無縁仏を供養するために建てられたお墓)を表しているようです。




** 青苗 **

青苗(せいびょう)というのは農作物を指します。読みは「あおなえ」だった可能性もあると思います。
「激しい干ばつが起こって大地を枯らし、畿内の外から百里まではただ枯れた土地だけがあって、青苗無し」という文になります。
青々と育つ農作物はなかったということでしょう。


** 青雲の高官 **
古事記の記述でも紹介しましたが、「青雲」は様々な意味を持つ言葉のようです。
青雲(せいうん)の高官というのは「高く晴れ渡った空のように、果てしなく高い地位や官位を持つ人」といった意味で、漢語由来の表現になります。
この場合の「青雲」は現在の「青空」に近いですね。この「青」は間違いなくblue系です。


** 青天白日の如く **
前述の「青雲」と同様に、「青天」も澄み渡った空を表す漢語表現です。「青天白日」で、文字通りには「青い天と白い太陽」、つまり雲一つない快晴を意味します。太平記でも「晴れ渡った空」の意味で使われています。現在では「心にやましいところがない」という意味でも用いられますが、室町時代だとこうした比喩的な使い方はなかったかもしれません。



ところで、「青雲」も「青天」も、現代なら「青空」ですが、和語としての「青空(あおぞら)」という表現は、ざっと調べた限り江戸時代以前には確認できていません。実際、「青空(あおぞら)」の初出について調べても、断定的な意見が見当たりません。これは、漢語として「青空(せいくう)」という表現も存在するため、古文献で「青空」と書かれていても、それが「あおぞら」と読まれたのか「せいくう」と読まれたのか、振り仮名なしには判別できないことが背景にあるのではないかと考えています。

また「青空(せいくう)」と「青空(あおぞら)」では、微妙にニュアンスが異なるような印象もあります。「せいくう」の方がより澄み渡った完璧な青天を指し、単なる空の描写を超えた精神的な比喩に用いられやすい気がします。


** 青蛾の御女 **
青蛾(せいが)は直接的には「青い蛾」という言葉です。それが「まゆずみで蛾の触角のような三日月形を描いた眉」ということで、美人あるいは美少女の代名詞となったそうです。

鮮やかな構造色かもしれませんし、この「青」はわかりませんね。鈍い色なのかもしれませんが、中国由来でしかも美人の表現なのですから鮮やかな色だとは思います。ただ、greenかblueかはわかりませんね。


** 丹青を尽せる妙音堂 **
丹青(たんせい)というのは単純に赤青です。太平記には複数回出現していますので、慣用句だと考えて良さそうです。

この例は「豪華な建造物は玉をちりばめ、客殿は雲に届くほどの高さだが、彩色を凝らした妙音堂や瑠璃を使用した法水院(ほっすいいん)も年々荒れていき、見る影もなくなった。」という内容になります。つまり、「丹青を尽せる」で色彩鮮やかであることの比喩になっていますので、この「青」は漠の意味合いではないですね。はっきりと色相を思い描いている感じでもなく「色グループ」としての用例に入ると思います。

この妙音堂ですが、弁財天を祀りその後寺院になったそうです。当初は鮮やかな色材で彩られていたのでしょう。妙音堂は移転を繰り返したそうですが、現在も鴨川デルタのそばにあります。


出町妙音堂



◆太平記の緑

出現頻度はかなり少ないのですが、緑の動向も見ておきます。
太平記には柳や松の葉などを緑とする表現がいくつか見られました。また、川の水を緑とする表現も出ていましたが、新しい表現として

原野血に染て草はさながら緑をかへ

という一節がありました。戦いの中で地表の草が血に染まるといった感じの描写なのですが、この「緑」は新芽ではなく木々のみどりとも違います。血の赤と対比される草の緑は、戦場の惨状を際立たせると同時に、そこに本来あったはずの平和でのどかな原野を想起させます。そして、「草は緑色である」という考えが根底に存在する、あるいは生まれつつあることも伺えます。つまり、色相に関しては室町時代に「緑=green」になったと言えるでしょう。

とは言え、現在の「緑」と全く同じということにはならない思います。この部分からは死の象徴である血との対比を生々しく描こうとする筆者の意図が感じられました。「緑」には依然として「若々しさ」「生命力」のような意味合いが残っていたのでしょう。



◆まとめ

武士の世になっても基本的には「青」に変わりはありません。新しい言葉はたくさん生まれていますが、青の認識が変化したとは感じませんでした。

ただ、青褐の「青」はこれまで見てきた感覚とは異なるものかもしれません。色調名として使う場合は灰がかった色などの曖昧な状態のように考えていましたが、明度が極めて低い「ほぼ黒」の状態という「中国独自の青」を古くから取り入れていた可能性も浮上しました。

また、「青き〇〇」という型の用例は非常に少ないですし、色名として使っていても比喩的な利用が増えています。ですので、色グループ名としての性質の方がより強まっている感じがします。単なる色名としての「青」の利用は減少していたのではないでしょうか。

一方「緑」の色認識は基本的に室町時代にはほぼ完成していた様子でした。現在の「緑=green」のような認識はこの頃に確立したものと思われます。ただし、「緑」が純粋な色名と呼べるかはわかりません。まだ「若々しさ」や「生命力」といった色以外の要素が多少は残っているように思います。


次回は室町時代~戦国・安土桃山時代ということになりますね。
お楽しみに。


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当記事には筆者の推察が数多く含まれています。また、あくまでもInfigo onlineに興味を持っていただくことを目的としておりますので、参考文献についての記載はいたしません。ご了承ください。
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