色のアラカルト:日本人の青と緑⑳ 安土桃山時代(上)

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日本人の青と緑⑳


前回までに室町時代までの「青」の変遷を追い、「緑」という色彩語が独立して使われ始めた様子も確認しました。

ここからは二回にわたり、安土桃山時代を見ていきます。
まずは一旦「青」から離れ、この時代を象徴する二つの美意識を紹介します。


◆豪華絢爛

この時代は対照的な二つの美意識が共存した珍しい時代ですが、安土桃山と聞くと、まずは安土城、伏見城、松本城といった城の壮大な天守が浮かびます。

安土城模擬天守
(提供: 伊勢市観光協会)
松本城

また、豪華絢爛な建物には豪華絢爛な障壁画が描かれました。桃山文化の代表格、国宝「唐獅子図屏風」は、この時代の美術界をリードした狩野永徳の作品で、織田信長が豊臣秀吉に贈ったものです。日本史で必ず習う絵ですね。永徳は信長にも秀吉にも認められ、安土城、聚楽第、大坂城などの障壁画を手がけました。

国宝「唐獅子図屏風」右隻

(画像: ColBase)


高さが2.2mという巨大な屏風の下地は金箔が贅沢に使われています。この画像ではわかりづらいですが、群青あるいは緑青といった鉱物顔料が岩や獅子に使われています。特に群青は、アズライトを原料とする貴重な顔料で、そういった鮮やかな青は富と権力の象徴でもあります。高松塚古墳にも使われていました。(こちらを参照)

この屏風は対になっていて、突出して有名なのは右隻(うせき: 向かって右側)です。左隻は江戸時代に毛利家が発注したものだそうで、右隻に合わせて狩野永徳のひ孫の常信が制作したものです。室町時代の狩野正信から始まった狩野派は、明治初期までの約400年にわたり日本画壇の中心に君臨した、世界でも類を見ない画家一族です。

「唐獅子図屏風」高精細複製品 by Canon


権力者たちは、豪華絢爛なものによって自らの威光を示そうとしたのでしょう。こうした派手なものを好む感覚が江戸時代の大名に残っていたということもわかります。


こちらは豊臣秀吉が伏見城に作らせたという茶室を再現したものです。


佐賀県立 名護屋城博物館

桃山文化を感じるというよりは、単に圧倒的な権力の集中を感じます。財力の誇示でしょうか。この場所でのお茶会は難しそうです。

さすがに金の茶室はやり過ぎでしょうが、当時は多くの権力者が中国の高価な茶道具を苦労して入手し、それを人前で使ったり飾ったりして富と権力を誇示していたようです。

所持している茶道具で常に格付けされてしまうので、殿堂入り狙いで金の茶室を作ったという感じなのでしょうか。秀吉は敢えて実用性のない無駄な物を作ることで、自らは別格だと示したかったのかもしれません。

やはり、「豪華絢爛」は極めて物質的な価値観に支えられていると言えそうです。


◆わびさび

一方、侘び茶(わびちゃ)の世界は全く違います。千利休が樂長次郎に作らせた楽茶碗は、利休の理想を形にしたものです。装飾を徹底的に排除した静謐な佇まいが印象的です。

黒楽茶碗「大黒」
(個人蔵)
赤楽茶碗「太郎坊」
(裏千家今日庵蔵)

(画像: 茶道具事典) 


元来、茶の湯は唐から入ったもので、鎌倉時代以降の公家・武士は「唐物数寄」と呼ばれる派手な茶会を開くことでステータスを示しました。本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って集められるのです。

侘び茶はこうした風潮に異を唱え、15世紀後半に村田珠光が始めたものです。その後、珠光の弟子が発展させ、千利休が完成させたとされていますが、「侘び茶」も「茶道」も江戸時代に生まれた言葉で、利休は「数寄道(すきどう)」と呼んでいたそうです。

「侘び」の辞書的な意味は「おちついて、静かで質素なおもむき」となります。あまりにも哲学的で簡単に定義付けできるようなものではないと思いますが、理解を促す説明を見つけました。「侘」という漢字は「人+宅」で「家に一人でいること」なのだそうです。つまり、ひっそりと暮らす様子を思い浮かべると「侘び」の理解に近づくことになりそうです。

「わびさび」という言葉が使われることも多いですが、「寂び(さび)」は時間の経過によって古びた物の趣や味わいのことで、この言葉は江戸時代から使われるようになったそうです。「る」を付けると動詞になりますが、基本的に「侘びる」のは人で「寂びる」のは物ですから、「わび」が精神性で「さび」は美そのものでしょうか。「わびさび」とした場合はそれらを包括した美意識・感性・価値観を指すようです。


国宝「待庵」は日本最古の茶室であり、現存する唯一の千利休作の茶室です。自然素材をそのまま使っていて外観は非常に素朴です。鼠色の土壁に囲まれたわずか二畳の空間も非常にシンプルなのですが、下地窓からの光、床の間の構成、素材の質感の対比など、客人をもてなすための様々な工夫が凝らされているそうです。

妙喜庵 待庵

(画像: Leaf KYOTO)

(画像: NHK)


全てにおいて余分なものを排したスタイルに見えますが、その裏には常に緻密な配慮/計算があるのですね。

ひっそりと暮らす「侘び」には慎ましさが必須だと感じます。「寂び」が加わると「慎ましやかにひっそりと枯れていく」という感じでしょうか。ビジュアルが豪華絢爛と正反対になるのも当然です。


◆二面性の考察

戦国の世を通して、豪華絢爛とわびさびの価値観は常に共存しています。どちらかを好む者がそれぞれ存在したということではなく、多くの人がこの二つの価値観に影響されていたのではないでしょうか。

豊臣秀吉は千利休に茶の湯を学んでいましたし、大坂城内には二畳の茶室もありました。侘び茶の理解がどれほどであったかはわかりませんし、お茶の席は色々な事に使われていたと思いますが、他の多くの大名も豪華な城郭に住みながら暗く小さな茶室で別の世界に浸っていたのです。

権力を誇示することが当たり前の時代ですから、公的な場での豪華絢爛と私的な場での侘びという使い分けは極めて自然なことだったのでしょう。これらは対立する訳でもなく、一つの文化の中で表裏一体となって機能していたように見えます。

豊臣秀吉像 狩野光信画


また、あらゆる局面でヒエラルキーが存在し、常に格付けされてしまう世の中です。武士にとって、豪華絢爛であることは力と威厳を実感でき、士気高揚のための演出にもなったでしょう。

一方、わびさびの美意識も多くの大名・武士の生活に重要な役割を果たしていたはずです。茶道の本質は禅と同じで、内面的な充足を重んじます。心を鎮め自身を見つめ直すための時間も、現実逃避の時間も持てたことでしょう。外への力と内なる力、この両方が強く求められる時代だからこそ、異なる二つの美意識が両立し得たのだと思います。


ここで、この時代の代表的な絵師として長谷川等伯を紹介します。桃山文化の二面性の考察では欠かせないと思います。

長谷川等伯は30代の頃に狩野派の門で学んでいましたが、辞めて独自の画風を確立していきます。利休とも交流があり、茶道と縁が深い大徳寺から依頼を受けるなどして、次第に名を上げていき、やがて長谷川派は狩野派とライバル関係になります。

楓図は豊臣秀吉が3歳で亡くなった息子・鶴松の菩提を弔うために建立した旧祥雲寺(しょううんじ)の障壁画の一部です。

 国宝「楓図」(1591)
智積院蔵 

豪華であることに変わりはありませんが、「唐獅子図屏風」と比較するとどこか異質に感じます。何とも言えない不思議な奥行きを感じます。

等伯の長男である長谷川久蔵が描いた桜図も紹介します。

 国宝「桜図」(1591)
智積院蔵 

この二つの障壁画は「豪華絢爛」だけで片付けてはいけないような気がします。
久蔵の技術は父等伯を凌ぐとされ、次代の長谷川派棟梁となることを期待されていましたが、これを描いた2年後に26歳という若さで亡くなってしまいます。

そして、そのすぐ後に生まれたのが水墨画の最高傑作とされている国宝「松林図屏風」です。

 国宝「松林図屏風」 (1593 - 1595頃)
(画像: ColBase



(東京国立博物館)

勢い、迫力、そしてどこまでも続くような奥行きを感じます。

水墨画は中国から鎌倉時代に禅とともに伝わったもので、水墨画家として名高い牧谿(もっけい)という禅僧の作品が人気を博しました。等伯もその影響を大きく受けています。ただし、松林図屏風は単に技法を取り入れただけでなく、日本の湿った空気が見事に表現されていて、純粋な日本画に昇華していると高く評価されています。

この静まり返った光景は、「わびの境地」とも評されていますが、個人的にはこちらも「侘び」で片付けるのは違うような気がするのです。「豪華」が適しているかはわかりませんが、この屏風が飾られていたら間違いなく威圧感も感じたはずです。

なお、テレビなどで頻繁に使われる千利休の肖像画は、没後に等伯が描いたものです。

「利休居士像」(1595)

表千家不審庵蔵

二人は何らかのシンパシーを感じていたのでしょうか。
等伯は無名の時期に利休を通じて大徳寺などの大きな仕事をもらっていたので、等伯にとって利休は生涯の恩人です。そして、利休が等伯の絵を認めていたということも興味深いです。年齢は一回り以上違いますが、難しい時代を代表する二人の表現者は同じような悩みを語り合っていたかもしれません。

ただ、1591年に利休、1593年に長男が亡くなっていますから、等伯は立て続けに大きな精神的ダメージを受けたはずなのですが、その苦境を乗り越えて「松林図屏風」を完成させました。

桃山文化の二面性は千利休の生き様からも感じ取ることができます。基本的に美意識の発信源は待庵と桃山文化のシンボルである聚楽第(じゅらくてい/ じゅらくだい: 豊臣秀吉の政庁兼邸宅)です。茶の宗匠として秀吉に仕えていた利休は聚楽第内に屋敷を構えることを許されていたため、「豪華絢爛」をそのまま形にしたかのような場所とそれと対照的な茶室の2か所を拠点とし、侘びを伝える活動をしていたことになります。また、望んでいたとは思えませんが、先の金の茶室を設計したのは利休だとされています。

 聚楽第図屏風(部分)  作者不明
三井記念美術館所蔵 


一方では秀吉の権威に寄り添いつつ、自身の美学を体現するため、あらゆる格付けや人為的要素を否定するかのように華美な装飾を削ぎ落としているのです。利休の言葉や教えはたくさん残されているものの、個人的な心情がわかるものはほとんどありません。ただ、一つ一つの行動は存分に語っていると思います。

利休は1582年から9年ほど秀吉に仕えましたが、最終的に切腹を命じられます。諸説あって理由ははっきりとしませんが、少なくとも利休に致命的な非があった訳ではなさそうです。秀吉は一言謝れば許すという伝言を使いに託していたそうなので、本気で利休の死を望んでいたとは思えません。日増しに求心力が膨らむ利休に釘を刺しただけなのでしょう。思い通りにならない人が身近にいるのは都合が悪いのです。

しかしながら、利休は謝罪の意思を見せずに切腹を受け入れてしまいます。「頭を下げて守れるものもあれば、頭を下げる故に守れないものもある」という言葉を残しているそうなので、謝る理由が無いとはいえ、そうまでして守るべき大事なものがあったことになります。

秀吉はそれ以前から利休の信条を理解していたはずですが、意地を張って威厳を保つ姿勢を見せることもまた、どうしても必要な時代だったのでしょう。両者ともに2つの価値観が対立するような構図にはしたくなかったと思いますが、常に勢力拡大を図る思考と常に慎ましく生きるべきだとする思考が嚙み合わなくなるのは必然です。

そもそも利休は自身の力で秀吉の思考を改めたいという気持ちがあったのでしょうか。最初は仲が良くて、利休にとってもメリットがあったのかもしれませんが、いかにも合わなさそうです。断りたいのにその権利もなく、渋々仕えていたのでしょうか。お茶の作法だけ覚えても、侘びの本質に同意していないとすれば、師匠側はストレスが溜まると思います。

秀吉は利休に切腹を命じたその年に朝鮮出兵を決断しています。利休は仕え始めた頃から暴走し続ける支配者を侘びの精神で止めようとしていたのかもしれませんが、その真意は永久に解明されないでしょう。


◆まとめ

安土桃山時代という激動の時代に、人々は異なる種類の力を求めました。外に向けた支配的な力と、内に向けた自己を保つ力。この二種類の需要は二つの方向性を生み、それぞれの目的に適した表現が模索された結果、「豪華絢爛」「わびさび」という二つの美意識が生まれました。

また、この二つの流れの中心に存在していた千利休は悲劇的な最期を迎えることになりました。歴史に理不尽は付き物ですが、そこにはいつも圧倒的な権力という根本要因があります。

利休が全てを理解した上で自らの命と引き換えに残したと考えると、時代に翻弄されながらも茶道が現代まで丁重に受け継がれているのは至極当然のことだと感じます。守ったものは物質ではなく精神性とその価値ですから、それ故に携わる人々の意思は強固なものなのでしょう。


千利休の高弟に、古田織部という武将茶人がいます。利休は織部に対して、自分とは異なる道を進むよう諭したと言われています。利休の死後、織部はその言葉通り独自の美を追求し、全く新しい焼き物を生み出しました。

次回は「青織部」を通じて、この時代における「青」の機能を探ります。


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