色のアラカルト:日本人の青と緑⑱ ~鎌倉時代

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日本人の青と緑⑱


古代人から平安貴族に至るまでの「青」を見てきましたが、現在の不可解な「青」の使い方も大分理解できる感じになってきました。

ひとまず、ここまでの青と緑について整理しておきましょう。


◆平安時代の青

7世紀に「緑」が登場し、平安時代にはそれが頻繁に使われるようになりましたが、blueもgreenも基本的に「青」で、彩度が低い「灰がかった色」も「青」のままでした。

「青」は非常に難しい言葉/考え方です。ここで平安時代までに培われた「青」を整理し、現在との差を理解しておきましょう。
なお、緑については、これまでの仮説を基に平安時代の緑で可視化してみました。こちらも是非ご覧ください。

平安時代の「青」はこのような意味を持つ言葉です。

色名として使う場合は渋いgreen系が主流
色調名として使う場合は灰がかった色などの曖昧な状態
色グループ名として使う場合は「blue系~green系」を完全に網羅

また、①に繋がったの元々の意味として
植物全般、葉緑素の色味

さらにはそれが発展して
果実が熟していないというような「若く未熟な状態」を示す


こうしたことを人々が意識していたとは思えないですが、結果的にこの状態がある程度続いたために今でもその名残りを見つけることができるのだと考えられます。

①の実例は「青りんご」「青虫」などに見られます。渋いgreenの「青」はあまり残っていませんが「蒼(あお)」という形で生きていると思います。

蒼色
(そうしょく)
#007655


また、②の例としては様々な色名が残されています。以下の「青」がつく色名は全て平安時代の文献に初登場しています。

青白橡
(あおしろつるばみ)
青丹
(あおに)
青鈍
(あおにび)
青朽葉
(あおくちば)
#85916D #858954 #5D6970 #ADA250

 

②の実例としては「青鷺」もありますね。


③は「青信号」、④が「青野菜」、⑤は「青臭い」という感じになります。

ちなみに、信号機は1930年の導入当初、正式には「緑信号」と呼んでいたそうです。ただ、新聞が「青信号」と表記したことをきっかけにその呼び名が世間に定着してしまい、1947年に制定された道路交通取締法に「青色」と表記することになりました。

「青信号」が定着した時代に、③の感覚が残っていたことがわかる例になります。当時はblueもgreenも青であることに全く違和感がなかったのでしょう。

ただ、現在は色名として使う際だと「青」はgreenではなくblueです。知識としてそう植え付けられているのか、色彩感覚が変化したのかはわかりませんが、少なくともgreenの物の色を訊かれて「青」と答える人はいないでしょうし、「greenは青系」という認識を持つ若者も少ないのではないでしょうか。

つまり、どこかの時点で①色名は変化してblueになり、②色調④植物の考え方は無くなって単語だけが残り、③色グループの性質は薄れました。③が薄れたのは結構最近のことのように思えます。
⑤未熟の使い方だけは完全にそのまま残っていますね。

一体日本人に何があったのでしょう。
焦点がはっきりしてきたと思います。この変化がいつ、どのように起きたのかを明らかにするために、ここからも時代順に「青」の実態を確認するしかなさそうです。


◆宇治拾遺物語の青


次は鎌倉時代なのですが、まずは13世紀初めに成立した「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」の、「青常(あをつね)の事」というお話を紹介します。「青づくし」として知られる平安時代のエピソードで、当時の「青」の認識を探る上で大変参考になります。

古事記等と同様に、その色認識が鎌倉時代のものか、出来事があった平安時代のものかは微妙なところですが、ひとまず鎌倉時代のものと考えて差し支えないと思います。

以下はこのエピソードを要約したものです。

村上天皇(在位: 946~967)の時代、極端に青白い顔色から「青常の君」というあだ名をつけられ、嘲笑されている皇族出身の若い左京大夫(京の東側地域を管轄した左京職の長)がいました。天皇はこのいじめのような状況を問題視し、殿上人たちを叱ります。彼らは話し合った結果、以降「青常の君」と呼んだ者は酒や果物を振る舞って償うことにするという罰則規定を作りました。

最初にこのルールを破ったのは藤原兼通(兼通: 藤原道長の父である兼家の兄)でした。兼通は初め抵抗していたのですが、周囲が執拗に責めたので規定通り罰として酒宴を開くことになりました。そしてその当日、兼通はすべてを「青づくし」にして現れたのです。

・本人は青い内着に青い袴、従者三名も青い狩衣に青い袴
・用意された食器は青く塗った盆に青い皿と青地の瓶
・用意された食材はこくわと竹に付けた山鳩

この演出に殿上人たちは大笑いし、騒ぎを聞きつけて天皇も様子を見に来ましたが、腹を立てることもなく爆笑しました。


このエピソードではたくさんの「青いもの」が出てきます。まず顔色の描写では「花を塗ったように青白い」とありました。今でも通じるこの「青白い」は古事記や日本書紀には見られませんでしたが、この頃から普通に使っていたのですね。

この「青」は②色調名の用例になるはずですが、実際の花の色を結びつけて「花を塗ったかのように顔色が悪い」とするのはかなり変です。でも、これがおしゃれな表現だったのかもしれません。

青い衣装は緑系だと思います。そもそも平安時代のエピソードですので、装束に関する「青」はgreenで問題ないでしょう。

お盆の青はよくわかりませんが、青い皿と青地の瓶を青磁だとしている現代語訳も多かったです。当時大陸から入ってきていた青磁は下表の右側のような物だと思われます。

青磁
(画像: 中川政七商店)
越州窯 青磁 (11世紀)
(画像: 陶磁オンライン美術館)


しかしながら、10世紀のお話ですので緑釉陶器(りょくゆうとうき)だと思われます。青磁の技術がない頃、中国から渡った青磁を真似て青瓷(あおじ/あおし)と呼ばれる陶器が作られていましたが、これが一般的な「青食器」だったのではないでしょうか。

青瓷
(画像: 鍋島 虎仙窯)
平安時代の緑釉陶器皿
(画像: 岡山市HP)


青磁は磁器ですが、青瓷は陶器です。磁器と陶器では焼成温度や原料が異なりますし、青磁の青みは鉄、青瓷の青みは銅からなので味わいが全然違うとは思いますが、いずれにしても右側の画像の感じなので渋いgreenだったはずです。


「こくわ」は猿梨(サルナシ)という植物の実のことです。英語ではベビーキウイとも呼ばれるそうです。

サルナシ



山鳩はおそらくキジバトかアオバトのことで、山鳩色は前回記事で紹介した禁色の麴塵(青白橡)と同じだとされています。

キジバト アオバト


調べた色を並べてみました。
鳩の毛色が由来となっているという意味がよくわかります。

山鳩色 麴塵(青白橡)
#767C6B #8E8F72 #68876F


やはり「青づくし」の「青」にblueは無さそうですね。

その後もこの「青常」のいじめは無くならなかったそうです。天皇自らも笑ってしまったからでしょうか。その後は、戒める人も出てこなかったと書かれています。



◆吾妻鏡の青・緑

鎌倉時代と言えば吾妻鏡です。
吾妻鏡は鎌倉幕府の公式記録として編纂された歴史書で、源頼朝の挙兵から始まる90年弱の記録になります。成立は鎌倉時代末期から南北朝時代とされていますが「青」や「緑」についてもいくつか挙げることができます。

** 青女(あおめ) **
若い女性を指す言葉で、何度も登場します。読みは「あおめ」だと思います。特に身分が高い人に仕えているときに使われているように思います。これは⑤の未熟を表す用例ですね。

** 青黒(あおぐろ) **  
青黒は馬の毛色で青毛や青鹿毛のことです。馬の毛色についてすでにこちらで紹介していますが、とにかく真っ黒の毛並みですから色についての考察はできません。


 (画像: 社台スタリオンステーション)


奈良時代か平安時代には「青い馬」という認識があったようですが、時代が進んでもこの複雑な「青」を使っていたことが確認できます。

** 青巌(せいがん) **
植物に覆われた岩山のことです。「青山」とほぼ同義ですから、この「青」は①色名のgreenか④植物になりますね。



** 虫襖(むしあお)の青 **

吾妻鏡は装束の記録も多数あるため、多くの重ねの色目が登場するのですが、ここでは虫襖を紹介します。こんな書き方になっています。

 番長兼平 布衣〔虫襖 上下、紅衣〕冠

「護衛隊の隊長の兼平は、平服〔表は黒、裏は二藍の虫襖の上下に紅の着物〕冠をかむっている。」という記述になります。

「襖(あお)」は青のことではなく、「襖」の音読み「おう」が変化したものです。表が青黒、裏が二藍(紫系)または薄色(淡い紫)という配色で、玉虫を表現したものです。

二藍の虫襖
二藍

薄色の虫襖
薄色


二藍は蓼藍(たであい)と呉藍(くれあい=紅)という「藍」がつく2種類の染料による色で、特に割合は決まっていないようです。紫根を使った紫とは趣が異なるのだと思いますが、幅広い紫系ということになります。

薄色は染料である紫根の濃度を薄くした淡い紫のことです。浅紫と同じ色とされています。染料の量は深紫の1/6程度だそうです。

いずれも、純粋な紫色にしないことが大事だったのだと思います。身分や格式の問題で濃い紫は気軽に使えないのですね。「紫」の字を使わないで紫を使う工夫だと考えることもできるでしょう。

この「青」が幅広いはずはないので、green系の①色名だと思いますが、「為時の緑」のような色にしてみるといい感じにマッチしました。技術的な問題もあり、この頃はこういう色味が多かったのではないでしょうか。


**緑について**
吾妻鏡でも「緑」の出現は限定的でしたが、「梢の緑」(木の枝先の葉)、「緑水流濁」(緑の水流が濁る)のように、素直にgreen系の色を指していました。

「梢の緑」というのは新芽のことだと推察できますから、平安時代と変わっていない使い方です。

「緑水流濁」は「昨日の雨で水量が増え緑の水は濁って白波を立てている」という文に出てきました。これは平等院近くの宇治川の描写だと思われます。

宇治川 (朝霧橋)

この川は割と濃いめのgreenですね。
これを「緑」とするのであれば、かなり現在の認識に寄ってきている気がします。むしろ「青」ではないことが不思議です。


なお、吾妻鏡にはこれら以外にも養和元年(1181年)の超新星爆発の記録が「鎭星の色青赤」という表現で残されています。色相に関するヒントは特にありませんが、この現象の研究に近年進展があったので、こちらで紹介しました。是非ご覧ください。



◆まとめ

やはり鎌倉時代の認識も 青=green系+灰がかった色 という感じで問題なさそうでした。①色名の用法としては濃いgreenと青磁のようなblue-green、あるいは麴塵のような灰がかったgreenといったものが基本でしょうか。「藍」「縹」の存在もあって、この頃はblue系を「青」と呼ぶことはほとんどなかったと思います。

アオバトの毛色のような渋みのある暗いgreenや古い青磁や緑釉陶器のようなくすんだgreenが「青」のど真ん中だったのかもしれません。

さらに「青づくし」の洒落は、鮮やかな緑も含め、緑~青緑や灰がかった色が全て「青」と認識されることによって成立していたとわかります。
①色名(green)、②色調名(灰がかった色)、③色グループ名(blue-green全体)の3つが完全に維持されていたからこそ生まれたエピソードだと言えます。

また、「緑」の用例では現在の認識に近づいている可能性が見えました。きちんとした説明はできませんが、依然として「青」は③色グループ名として利用されているものの、「緑」と「青」をこのような感じに使い分けていたのではないでしょうか。

#ADCA80 #00A16F #68876F #006248

「青」は総じて鈍い色を表していたように思います。やはり、②色調名の影響が強いのかもしれません。

次回は室町時代から「青」を追うことになります。
もっと劇的な変化があるはずなのですが、いつになるのでしょう。



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当記事には筆者の推察が数多く含まれています。また、あくまでもInfigo onlineに興味を持っていただくことを目的としておりますので、参考文献についての記載はいたしません。ご了承ください。
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