色のアラカルト:スポーツと色① 戦車競走

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スポーツと色①


みなさん、こんにちは。
「スポーツと色」と題した新連載のスタートです。

スポーツの現場だと、色はただ見た目を彩るだけのものではありません。ユニフォームの色、対戦選手を区別するための色、判定に使われる色、勝ち負けを示す色、応援席を染める色。競技という枠組みの中で、色は時に規則として、時にチームの印として、様々なシーンで多様な役割を担ってきました。「スポーツと色」では、こうした競技と色の関係について一つ一つ紐解きながら紹介したいと思います。

初回に取り上げるのは、記録に残るもっとも古い例のひとつ、古代ローマで最大級の人気を誇っていた戦車競走です。



◆戦車競走とは

戦車競走は2頭あるいは4頭の馬に引かせた戦車を御者(ぎょしゃ)が操縦し、キルクスと呼ばれる競技場を周回してその速さを競う競技です。起源は不明ですが、ミケーネ文明(紀元前1600年〜紀元前1100年頃のエーゲ文明の一つ /ミケーネはギリシャの古代都市の一つ)の陶器にこの競技を描いたものが残っており、紀元前13世紀にはすでに行われていたようなので、想像を絶する古い競技です。

ギリシャでは、馬と戦車を所有できるのは最も裕福な貴族に限られていました。実際に手綱を握るのはほとんどが雇われた奴隷なのですが、勝利の栄誉が与えられるのは所有者でした。派手な見世物を提供しつつ、その勝利によって自らの名声を高めるというような、馬主のために開催された競技だと言えます。


The Chariot Race, c.1882  アレクサンダー・フォン・ヴァーグナー


戦車競走はローマに伝わるとかなり性格が変わりました。ローマでは建国の祖ロムルスが最初のレースを始めたとされ、共和政期には盛んに行われるようになっていたようです。こちらでは勝者とみなされたのは御者自身です。その多くは奴隷の身分でしたが、勝利を重ねて賞金を積めば自由を勝ち取ることもでき、帝国中に名が知られるような者も現れました。競技は、馬主の名誉のための場から、御者がスターとなるプロスポーツ的な興行へと変わっていったのです。

また、競技は娯楽の枠を超え、時の権力者が民衆の支持を得るための場になりました。ローマ本国では皇帝が民衆の支持を得るために競技を後援し、属州では総督がその役を担いました。

戦車競走と聞くと、映画『ベン・ハー』を思い浮かべる方が多いかもしれません。1959年公開の映画で、アカデミー賞で11部門のオスカーを受賞した不滅の大作です。『ベン・ハー』のチャリティ上映には昭和天皇と香淳皇后が招かれ、これが日本初の天覧上映になりました。

こちらはベン・ハーの戦車競走シーンです。



この映像の中で観覧席からスタートの合図を出しているのは、新約聖書でイエスの裁判を行った人物として知られる、ローマから派遣されたユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスです。



◆戦車競走と色

やがて、レースの規模が拡大するにつれ、競走馬を生産・供給する厩舎ごとに後援者や関係者が組織化されていきます。観客席が広がり、遠くの観客にも走者を見分けられるようにする必要から、厩舎ごとに色を定めて区別するという実務的な工夫が生まれました。これが、色による派閥という枠組みの出発点です。

その後、西暦1世紀のネロ帝の時代には、この仕組みが緑・赤・青・白という4つの色に整理され、皇帝の支援のもとでさらに拡大していきました。それぞれの色は季節を象徴していたとされ、緑は春、赤は夏、青は秋、白は冬になります。記録によれば、元々は赤と白の二派閥しかなかったものが、後に緑と青が加わり、四派閥になったといいます。最初の2チーム制は日本の運動会のように紅白だったことになりますね。

色は単なる象徴にとどまりませんでした。御者たちはそれぞれの派閥の色に染めたトゥニカという長いTシャツのような衣服を身にまとい、競技場を疾走します。前述のベン・ハーでは9人の御者がバラバラの服装で参加していて、チームの象徴的な色も無さそうですが、これは舞台がローマではなくその支配下にあったエルサレムだからです。ここでは派閥が無く、個々の雇い主が戦車と御者を所有していたようです。属州だとやはり雰囲気も違ったのですね。

ローマ人と聞くと、下のAのような感じを連想すると思いますが、巻いているのはトガと呼ばれる布で、中に着ている服がトゥニカです。軟弱なイメージがあって3世紀頃まで長袖はあまり着られていなかったようです。Bが一般的な御者の恰好で、袖無しが多かったのではないでしょうか。

A B


競技場は大盛況だったようですが、遠くの客席から見れば、馬も戦車も豆粒のようなものです。自分が応援する色が今どの位置を走っているか、観客はトゥニカの色を頼りに目で追ったのでしょう。ざっと調べた限り、この派閥コスチュームが世界最初の競技ユニフォームと言えそうです。

やがて、4つの派閥は2つに集約されていきます。赤と白は次第に勢いを失い、それぞれ緑と青に吸収されたそうです。資金や有力な御者の確保が最重要ですから、2大派閥になるのは自然な流れだったのでしょう。

言うなれば、青党と緑党です。この2党は競技の枠をはるかに超えて対立するようになります。東ローマ帝国の時代になると、皇帝が特定の派閥をひいきすることも珍しくなくなります。6世紀のユスティニアヌス帝(在位527〜565年)は青党びいきとして知られていました。青党は正教会の教義を、緑党はそれとは異なる教義を支持していたとする説もありますが、確かなことはわかっていないようです。いずれにせよ、競技の応援にとどまらず、政治的な思惑や立場までもが、青と緑という二つの色に重ねられていったのです。ほぼ二大政党制です。

経緯はこの通りです。

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◆ニカの乱

皇帝自身もレースに熱狂していたようで、東ローマ帝国の首都にあったコンスタンティノープル競馬場は宮殿と隣り合わせということもあり、日常的に皇帝と民衆が顔を合わせる場となりました。やがてこのキルクスは、庶民が嘆願や抗議を行う場所になっていきます。

6世紀の皇帝ユスティヌス1世には跡継ぎがいませんでした。そこで、姉の子であるユスティニアヌスを養子に迎えます。ユスティニアヌスは叔父の後を継ぐための支持を固めようと青党に肩入れし、彼らが多少の法を破っても罰を受けずに済むような状態を許していました。ところが即位すると一転して厳格な方針を取るようになります。かつての支持者たちは裏切られたと感じ、一方の緑党は青党優遇の記憶を忘れることはありません。


ユスティニアヌス1世


また、ユスティニアヌスは古代ローマ帝国の再興という理想を抱いており、その費用は青も緑も関係なく税として市民の肩にのしかかりました。もっとも、皇帝がどのような夢を描いていたかなど、市民はつゆ知らぬことです。ある程度の暮らしが成り立つようになった都市の住民が求めていたのは、遠い西方の失地ではなく、日々の平穏のはずです。重税を課す官僚の汚職、債務者への苛烈な取り立て。市民は皇帝の裁量のあらゆる点に疑問を抱いていたと思われます。青党に肩入れしたことでわかりづらくなっていますが、元より市民と皇帝の利害が一致している瞬間はなかったのではないでしょうか。どこの国でも似たようなことが起きるものです。

西暦531年、戦車競走の後に起きた青党と緑党の乱闘で死者が出ました。双方のメンバーが逮捕され、その翌年に逮捕者のうちの7名の処刑が行われることになりました。ところが死刑執行の現場で処刑台が壊れるという事態になり(これが偶然のことなのかは不明)、青党メンバー1名と緑党メンバー1名が死を免れます。この2名は修道士に助けられ、聖堂に逃げ込みました。

その3日後に行われた戦車競走の最中に、市民たちは助けられた2人の赦免を求めて叫び続けました。22レース目に至るまでその声は止まなかったものの皇帝からの応答はなく、そしてついに普段は敵対している青党と緑党が「ニカ」の叫びのもとに一つになり、溜めていた不満を爆発させます。「ニカ」はギリシャ語で「勝利せよ」を意味し、本来は御者を励ます掛け声です。その言葉がこの日から反乱の合言葉となりました。

暴動は瞬く間に拡大し、都市の大半が焼き尽くされました。最終的には競技場に集まった反乱側の市民が軍によって鎮圧され、その犠牲者は3万人に上ったとも伝えられます。これをニカの乱といいます。


色そのものが直接的に反乱を引き起こしたわけではありません。それでも、一つの色を選ぶという行為が、人々を束ねる力を持っていたことは確かです。色が単なる識別を超えて人の立場そのものを背負い、ついには生死を左右するほどの重みを帯びてしまったのです。


なお、ユスティニアヌスの評価については古くから賛否両論あります。古代ローマ帝国の再興という理想のもと、北アフリカ、イタリア、スペイン南部を取り戻すことには成功しました。しかし長期にわたる戦争は国土を荒廃させ、541年に始まったペストの大流行が追い打ちをかけます。経済は疲弊し、兵力も枯渇しました。彼の死からわずか3年後の568年、イタリアはランゴバルド人の侵入を受け、半島の大半を失います。スペインも一世紀と経たずに放棄され、二度と帝国の手に戻ることはありませんでした。



◆戦車競走のその後

ローマ最大の競技場キルクス・マクシムスは十数万人を収容したとされ、コロッセウムの剣闘士競技をも上回る規模の観客を集めていたといわれます。しかしながら、経済的・政治的な危機によって6世紀半ばまでにローマの戦車競走は廃れてしまいました。


キルクス・マクシムス想像図


残念ながらキルクス・マクシムスの壮麗な建造物はほとんど現存しておらず、その地は公園として整備されています。


キルクス・マクシムス


キルクス・マクシムス越しのパラティーノ


隣接する建造物は多少残っています。対岸の丘はパラティーノの丘と呼ばれていて、神殿やテルマエの遺跡が残っています。この丘の遺跡と古代ローマの中心部の遺跡(フォロ・ロマーノ)とフラウィウス円形闘技場(コロッセウム)とが一体となって巨大な屋外博物館になっているそうです。


ニカの乱の舞台となったコンスタンティノープル競馬場はヒッポドロームとも呼ばれ、世界遺産「イスタンブール歴史地区」の構成要素となっており、トルコの観光名所の一つです。こちらもスタジアムが残っている訳ではありませんが、中央分離帯を飾っていた二本のオベリスク(石柱の記念碑)が今も立っています。


ヒッポドローム



他の競技場が放棄される中、戦車競走はコンスタンティノープル競馬場でのみ存続し、やがて本物の競争というより儀礼的なものになっていきました。競技場は10世紀から11世紀にかけても娯楽の場として使われ、記録に残る最後の戦車競走は1200年に行われています。


一方、元祖であるギリシャの戦車競走は、ゼウスに捧げる宗教祭礼であるオリンピア祭の主要種目として続きました。この危険な競技を宗教祭礼で採用したのですから、ミケーネ文明の頃から占いのような意味や宗教的性質を持っていたのかもしれません。オリンピア祭は紀元前776年に始まって1000年以上行われましたが、紀元前146年にギリシャはローマの属州となったため、オリンピア祭は結局ローマの支配下で開かれる行事になりました。

4色の派閥が出揃った時代の皇帝ネロは、自らオリンピア祭の戦車競走に出場しています。本来4頭立てのところを10頭立てで走り、しかも途中で落車して完走できなかったにもかかわらず、優勝者と宣言されました。完走していれば勝っていたはずだ、という強引な理屈だったようです。ネロの死後、ギリシャ側はこの勝利を記録から抹消しています。

ギリシア各地の競技場で戦車競走がいつまで続いたのかは判然としませんが、おそらくローマ本国で廃れた時期と大きくは変わらないと思います。

古代ギリシャのオリンピックでのチャリオットレースの終了

From 'El Mundo Ilustrado', published Barcelona, 1880



◆まとめ

ローマの戦車競走は、現代のスポーツエンターテインメントの原型のような存在です。十数万の観衆が、命の危険を伴う競技に熱狂していました。落車すれば戦車に引きずられるため、御者は手綱を切るための曲刀を腰に差して走ります。剣闘士の戦いと同様に残酷さの入り混じる見世物ですが、それも魅力の一つだったのでしょうし、危険であればあるほど勝利の価値も高まります。映画『グラディエーター』の影響もあってコロッセウムでの剣闘士の戦いの方が一般的だと思いますが、当時のローマ人がより熱狂したのは戦車競走だったようです。


色分けは視認性という実用的な理由から生まれましたが、人々はやがてそこに自分の色を見つけ、期待を託すようになりました。遠くからでも見分けるための工夫が、帰属意識を生んだのですから不思議な現象です。

ところで、日本語の「チームカラー」には、ユニフォームの色という意味のほかに、集団の気風や戦術的な特質を指す意味合いがあります。一方、英語の "team colors" に後者の意味はありません。colors といえば身にまとう色そのもので、"wear the colors"(その色を着る)といえばそのチームに属することを指します。色が視覚を離れて気風まで表すようになったのは、日本語ならではの現象かもしれません。ただ、単なる識別色が集団の性格を背負う現象は、ローマの青党と緑党がすでに通ってきたものです。

現代でも、競技場を埋める色とりどりのユニフォームや旗に「熱狂」や「圧力」を感じることがありますが、その原点が2000年近く前に存在していたのですね。


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当記事には筆者の推察が数多く含まれています。また、あくまでもInfigo onlineに興味を持っていただくことを目的としておりますので、参考文献についての記載はいたしません。ご了承ください。
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